目次
はじめに
今回は、私の出身地でもある新潟県長岡市に受け継がれる「米百俵の精神」をテーマにまとめていきます。
今から約150年前、江戸時代から明治時代にかけての新潟県長岡市での「米百俵の精神について」「戦後復興と長岡花火」「米百俵からの学び」について触れています。
学問や学びの大切さや目先ではなく長い目で見る重要性を学べる内容かと思いますので、最後までご覧ください!
歴史の分野になるため、様々なページを参考にしています。
米百俵の精神について
概要
今から約150年前の江戸時代末から明治時代にかけてのお話です。
江戸時代:1603年~1868年の約265年間
明治時代:1868年~1912年の約44年
もう少し詳しく説明すると、長期間の鎖国によって外国との関係を閉ざしていた江戸時代/江戸幕府と、明治維新/新政府による近代化改革の対立が起き、戊辰戦争の結果、新政府軍が勝利し明治時代へと移り変わった時のお話です。

今回のテーマとなる新潟県長岡市は、当時江戸幕府側として戊辰戦争敗戦の影響を受けました。250年余りをかけて築き上げた城下町長岡は、焼け野原となり、領地も3分の1程度まで減らされました。
戊辰戦争に敗れた結果、長岡の人たちの暮らしは、その日の食事にも事欠くありさまだったと言われています。
要するに、国内の戦争に敗れ、貧しい生活を送っていたという状況でした。ここからどのようにして再建していったのかが「米百俵の精神」として語り継がれています。
小林虎三郎
この「米百俵の精神」には重要な人物がいます。それがその時代を生きた「小林虎三郎」さんです。
郷土史として習うため、長岡の人でこの名前を知らない人はいないかと思います。

- 1828年~1877年(享年50)江戸末期~明治初期
- 長岡藩の武士(藩士)の家に生まれる
- 藩校と言われる藩士の子弟を教育する学校で、学識を深める
- 優秀だったため、江戸に出て(遊学→現代で言う留学に近い)さらに学識を深める(佐久間象山の門下生)
- 師である佐久間象山にも「我が子の教育を託すものは小林虎三郎」と認められるほどの教育に対する学識を備えた
- 戊辰戦争に敗れた後、焼け残ったお寺の本堂を仮校舎として国漢学校を開校し、子供たちに学問を教えた
自身のもつ高い学識と、与えられた経験から教育に対しての可能性を示し、教育に力を注ぎました。
【小林虎三郎さんが示した「教育」】
- 「教養を広めて人材を育する」
- 「どんな苦境にあっても教育をおろそかにできない」
- 「時勢に遅れないよう、時代の要請にこたえられる学問や芸術を教え、すぐれた人材を育成しよう」
- 「国がおこるのも、まちが栄えるのも、ことごとく人にある。食えないからこそ、学校を建て、人物を養成するのだ。」
米百俵の話
小林虎三郎さんが、お寺の本堂を仮校舎として学校を開いた1年後、長岡藩の窮状を知った三根山藩(現新潟県新潟市)から米百俵が見舞いとして贈られてきました。
その日の食事にも事欠くありさまであった長岡の人にとっては、当然分けて貰えると思うお米であり、のどから手が出るような米でした。
しかし、藩の大参事(現在の副知事のような立場)であった小林虎三郎は、「この百俵を分配しても一人当たりいくらにもならない」「この百俵を元にして学校を建てることが、戦後の長岡を立て直す一番確かな道だ」として人々を説得しました。
後にこの出来事を書き下ろした文豪・故山本有三さんの「米百俵」には、その説得が記されています。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」
こうして藩士を説得し、送られた米百俵を売却し、国漢学校の書籍や用具の購入に充てました。
ひと月後には、新校舎が完成し、漢学をはじめ、日本の歴史や国学、さらに洋学、地理や物理、医学までも、さまざまな学問を学ぶことができるようになりました。また、身分にとらわれずだれもが入学できるようにしました。
そして、国漢学校では小林虎三郎の教育方針が貫かれ、生徒一人一人の才能をのばし、情操を高める教育がなされ、ここに長岡の近代教育の基礎が築かれました。その後、長岡には国漢学校の流れをくむ学校が数多く誕生し、ここから新生日本を背負う多くの人物が輩出されました。
- 東京帝国大学総長の小野塚喜平次
- 解剖学の医学博士の小金井良精
- 法学博士の渡邊廉吉
- 司法大臣の小原直
- 海軍の山本五十六
- 洋画家の小山正太郎
- 外交官で漢学者の掘口九萬一
- 詩人の堀口大学
特に海軍の山本五十六元帥は、映画のモデルにもなったので知っているかとも多いかと思います。
後の長岡市
また、その後の長岡市では、今から約80年前の1945年8月1日(第二次世界大戦末期)にアメリカ軍の空襲によって再び焼け野原となりました。(その後、同年8月6日に広島、8月9日に長崎に原子爆弾が投下され、8月15日に終戦となります。)
しかし、長岡の人びとは不屈の精神と自立心で復興に取り組み、全国の戦災都市の中でもトップの早さで、復興都市計画事業の完工式を行いました。このとき、人びとが行動の指針としたのも、「人づくりはまちづくり」として受け継がれてきた「米百俵の精神」と言われています。
また、全国的に有名な長岡まつりの長岡大花火大会の起源は、この空襲の翌年。現在は、毎年8月の2日3日に開催され、「慰霊と復興、平和への祈り」をコンセプトに願いを込めて開催されています。

また最近では、2018年から「花火×食×音楽」として「長岡 米百俵フェス ~花火と食と音楽と~」というライブイベントが開催されています!(comefesHP)
2001年小泉純一郎内閣の演説と流行語
小泉純一郎内閣の演説
この「米百俵の精神」は今から約20年前の2001年、小泉純一郎内閣の演説でも用いられました(ダイヤモンドオンライン記事)。
「今の痛みに耐えて明日を良くしようという『米百俵の精神』こそ、改革を進めようとする今日の我々に必要ではないでしょうか」
流行語大賞
この演説がきっかけとなり、同年の新語流行語大賞の年間大賞のひとつとして「米百俵」が選出されました。

4つの視点から見る「米百俵の精神」
様々な参考を見ていく中で、この「米百俵の精神」には4つの視点が存在して成り立っていることを感じました。
- 自身の考えを貫き、説得をした小林虎三郎さん
- 説得を受け、お米を分け与えられる権利を受けなかった藩士
- 自藩も苦しい中で米百俵を送った三根山藩(現新潟県新潟市)
- それに応えた子どもたち
自身の考えを貫き、説得をした小林虎三郎さん
まずは何と言っても、方向性の舵をとった小林虎三郎さん。当時の立場もあると思いますが、自身の能力や経験から導き出した考えを、反対意見の大勢の藩士を説得したことに学びがあります。
それまでの努力ももちろんありますが、大きく舵を取るには大きな負担がかかります。これを未来の為と歴史を動かした行動がなかなか真似ることのできない力だと感じます。

説得を受け、お米を分け与えられる権利を受けなかった藩士
江戸時代末期は、身分による縦社会。藩士は高い身分のため米百俵を分けたたら確実に自分の手元にお米が来ます。
そのお米を分けずに売って、自分たちには関係ない学校の資金に充てるという意見に反感を持つのは当たり前かと思います。
ですが結果として未来のために学校を作る資金にするという舵取りとなったのも、喉から手が出るほど欲しかったお米を得る機会(権利)を手放すという、藩士たちの協力があったからに他なりません。
このような背景から、上記にあった小泉元総理の演説も「国民に対して言うのは、はき違えている。」「権力者の心得ではないか?」といったネット上の意見もありました。
自藩も苦しい中で米百俵を送った三根山藩(現新潟県新潟市)
また、そもそも米百俵はとても価値のあるものです。それを分け与えている三根山藩の協力も「米百俵の精神」には欠かせない点です。
自らの藩も苦しい状況の中で、手助けができることも大きな力と言えます。
それに応えた子どもたち
そして何と言っても学校に通い、学問を学び、飛躍していった子どもたち。大人の舵取りに応えていった子どもたちの力も、大きかったと言えます。
学ぶことに励み、自主的意欲的に学んだからこその結果かと思います。
「勉強が嫌だ」「面倒だ」なんて言ってられない!と思える内容です。


まとめ
今回は、私の私の出身地でもある新潟県長岡市に受け継がれる「米百俵の精神」をテーマにまとめました!新潟県長岡市の郷土史として習う「米百俵の精神」ですが、今となって感じるものがあります。
これは、今から約150年前の江戸時代末から明治時代にかけてのお話です。
江戸幕府と明治維新の国内戦争(戊辰戦争)で敗れた長岡に送られた米百俵。この米百俵を今分けてしまうか、未来へ投資をするか。のストーリーです。
この行方を指揮したのが長岡藩の藩士「小林虎三郎」さんでした。これまでの学問や経験から「どんな苦境にあっても教育をおろそかにできない」とし、舵を取りました。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」
その結果、敗戦から立ち上がり「米百俵の精神」として受け継がれています。
この「米百俵の精神」は、現代でも通ずるところがあるかと思います。
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